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No.01
ブルーノ・タウト  
ベルリンのジードルンク(集団住宅)

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1984年に初めてベルリンを訪れました。まだ東西に分断されているころです。そんな中、タウトがドイツ時代に設計したブリッツのジードルンク(集団住宅)を見学。彼がドイツ語でいうアウセン・ヴォーン・ラウム(屋外住空間)の思想が見事に住環境として実現されていました。この感動は後の修士論文を書くきっかけとなりました。ドイツ語は板に付かず、日本におけるタウトの受容と評価を軸に論文を書くことになりますが・・・。私にとって住空間の原点、原型を感じた建築であったと思います。近々、世界遺産になると噂されています。(写真は、24年前のリバーサルフィルムをスキャナーでデジタル化したものなので、画像がかなり劣化しています。)

No.02
エドゥアルド・ソウト・デ・モウラ  
ポウザーダ(ポルトガル国営ホテル)

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保存活用の可能性を認識させてくれたポルトガルの建築家ソウト・デ・モウラの仕事、ポウザーダ・サンタ・マリア・デ・ボウロという国営ホテルは、ポルトガルのポルトからバスでおよそ1時間の街アマレスの街外れにあります。シトー派修道院の廃墟を国営ホテルに保存再生された建築物です。ほとんど廃墟からつくり直したとは思えない精度の高い建築には驚嘆しました。国営ホテルの位置するポルトガル北部の自然は美しく、周辺の環境とも調和したポルトガルらしい落ち着いた建築です。ポウザーダという小規模な国営ホテルはポルトガル全土にあり、その地方の食文化や自然を体感できるホテルが数多くあります。ポウザーダは、スペインのパラドールに相当します。

No.03
ドッシのアトリエ  
インド(アーメダバード)  

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1985年の4月に真夏のインド、アーメダバードへ到着。旅をはじめて10ヶ月が経過していました。ちょうど事務所の先輩でインドに留学中だった建築家新居照和さんのバイクにまたがり、コルビュジェのインドの弟子であるドッシさんのアトリエを訪問。あいにくドッシさんは留守でしたが、3時のティータイムで所員は庭で紅茶を飲むので、その間事務所内を見学させてもらうことに。白いタイル貼りのボールトはインドの暑い日差しに影をつくり、開放的なインドらしい屋根の建築化。このボールトのスラブの中間にはちゃんと断熱材が入っています。写真の最後はインド式クーラー。ボックスの中に濡れ雑巾のようなものが吊る下がっていて、事務所内に気化熱が奪われた後の冷気を送風機で流し込む装置でした。乾燥した気候ならではのローテクな仕組みに感心しました。



No.04
最初の木造住宅 
美ヶ原の別荘(軸組)

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スライドを整理していると、20年前エステック計画研究所時代に担当した美ヶ原の別荘の建て方時のスライドが見つかったので、アーカイブスに公開することにしました。この別荘は私にとって初めての木造建築の担当であったこともあり、印象深い仕事でした。中央高速から白樺湖を越えて現場まで片道5時間くらいだったと思います。結局、現場へはすべて日帰りで通いました。今であれば近くにある別所温泉にでも宿泊してゆっくり帰るところですが・・・。木造でありながら、ボールト状の屋根を宙に浮かすようなデザインが特徴です。すべてが木建具。水切り部分の収まりは、原広司さんの木造住宅を参照しました。ボールト部分は鉄骨で加工し、開き止めにタイバーで緊結しています。標高1500メートルの現場でしたが、地元の工務店の方がよくがんばってくれ、精度の高い建築に仕上がりました。黒御影石を使った8畳間の浴室が1階にありますが、この浴室ほどお金をかけた仕事はこれ以来ありません。(現況は2007年8月15日のブログで取り上げました。)


No.05
ロンドンズー ペンギンプール 
バーソールド・リュベトキン

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ヨーロッパで初めて訪れた都市がロンドンだったこともあり、ロンドンは今でも印象深い都市です。まず驚いたことが、日本とは異なる乾燥した空気でした。歩いていると頭の中がスッキリとしてくる空気の感じが心地よかったことが思い出されます。紹介したロンドンズーのペンギンプールはイギリスの近代建築として有名なものですが、このプールの設計者で建築家グループであるテクトンについてはあまりよく知られていないのではないでしょうか。その中心メンバーであったバーソールド・リュベトキン率いるテクトンは、この有名なペンギンプールと同時代にゴリラの家の計画をしていたり、ダッドリー動物園ではトドを収容するプールや同じくペンギンプール、鳥小屋などを設計しているようです。こちらの方は残念ながらまだ見学していません。近代建築の居住者は何も人間だけに限ったことではないということです。テクトンは1940年(1948年とも言われる)に解散してしまったようですが、イギリスのコルビュジェと言われたというリュベトキンのその後の活動が気になります。

  


No.06
リスボン・サン・ジョルジョ城 
朱色の屋根の記憶

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リスボンの好きな場所はと聞かれ、まず頭に思い浮かぶのは、サン・ジョルジョ城です。リスボンの街を眼下に望むことができるこの場所は、朱色の屋根の街並みとテージョ川の眺め、その先に大西洋を望むことができる絶好の場所です。この城までの道のりも何通りもの行き方があり、それぞれ特色のある街路から多様なリスボンの風景を楽しむことができます。6月の聖アントニオ祭の頃、この城の小広場はビアガーデンに変わり、リスボンの街の眺めを酒の肴としながら、夜遅くまで酒飲み達が絶えることがことがありません。1984年に初めてリスボンを訪れた時も、この城まで登りリスボンの街を眺めたのですが、その風景は初めてみた風景とは思えず、ずっと以前の記憶の中の風景を観ているような錯覚を覚えました。1995年にリスボンを再び訪れることになりましたが、いつも初めに行きたくなる場所がこの丘の上のサン・ジョルジョ城です。


No.07
ブラジリア 
天才達の都市

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1998年の1月末からカルナバルの1週間前まで、ブラジルを旅しました。ちょうど10年前のことになります。ブラジルの中で4つの都市を自由に飛行機で移動できるというチケットを購入。選んだ都市はリオ・デ・ジャネイロ、サンパウロ、イグアスの滝とブラジリアとしました。ブラジリアでは、この私とほとんど同じ歳の都市がどのように変化しているのか確かめることが目的でした。オスカー・ニーマイアーによる国会議事堂周辺の無味乾燥な風景にまず驚かされました。この都市では絵の中の近代都市が現実に現れたという風景でした。ルシオ・コスタによる街路のプランにも驚かされました。郊外へ出てしまうと横断歩道は存在せず、高速道路のような街路を徒歩で横切らなければならないという有様でした。予想外であったのは、ブラジルの植物、樹木の成長速度の速さでした。近代建築を取り囲む植物、樹木が真夏の都市に影を落とし、郊外の住宅団地は居心地が良さそうでした。このブラジリアが世界遺産に認定されたのは、世界遺産の基準の内、「天才によって生み出された創造的な作品」であることによるそうです。つまり、建築家オスカー・ニーマイヤーと都市計画を担当したルシオ・コスタは現代における天才と認められたことになりますが、天才達の都市が居住に適するような都市になるには、あと20、30年は必要でしょう。(伊東孝著、『日本の近代化遺産』を参照)


No.08
エクサンプロヴァンス(フランス) 
街路樹

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旅日記によれば、1984年10月6日、バーゼルから夜行でエクサンプロバンスに到着。コルビュジェのノートルダム・ドュ・オーなどを観てから南フランスを廻るため、マルセイユに行く前にエクサンプロヴァンスに立ち寄り、朝8時30分頃エクサンプロヴァンスに着くと土曜日のせいもあり、街路にはたくさんの市が立ち、その中を夢心地で歩いたと記されています。この都市で特に印象的だったのは、北フランスでは感じられなかった南フランスの太陽と街路をドームのように覆う街路樹でした。パリの街路樹も美しいのですが、この街はさらに樹木の成長がよく、石造りの建築に疲れていたこともあり、ほっと一息ついた記憶があります。その他、街路樹が印象的な街はバルセロナのランブラス通り、日本では仙台のケヤキ並木が印象に残ります。世界中の優れた都市には必ずみずみずしい緑があります。特に街路樹は、都市におけるインフラとして欠くことのできないエレメントの一つと言っていいでしょう。

No.09
沖縄県那覇市
牧志公設市場

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公設市場といって真っ先に思い出すのは、那覇市の中央に位置する牧志公設市場です。沖縄に滞在していたころ、休日になるとこの市場の周辺や壺屋あたりの迷宮状街路を散歩することが好きでした。市場でサトウキビを買い、かじりながら歩くこともよくありました。改めて写真を眺めてみると、人々の活気には驚きます。パリのパサージュにも負けていません。この市場は、生活に必要なありとあらゆるものが手に入る場所であり、人々のコミュニケーションの場でもあります。近年この牧志公設市場のような活気ある市場が衰退してきていることは残念です。旧態依然としていては活気は望めないことは確かなのでしょうが、この市場のように普通の庶民の集まれる場所の衰退には何か危機感を感じざるを得ません。スーパーの中に活気があっても何かむなしいのは、都市に開かれたスペースとして機能していないからでしょう。牧志公設市場のように、日常の延長として存在する市場を歩く愉しみを失いたくないものです。


No.10
ルッカ(イタリア) 
城壁

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ヨーロッパの街で特に印象的な都市風景のひとつは、城壁の存在です。印象深い城壁は数多くありますが、その中で特に美しい城壁の一つはイタリアのルッカという街の城壁です。ルッカはあの建築家ブルネレスキが水攻めを行おうとして失敗した都市として知られています。彼は、水力工学をシエナのタッコラから学んだそうです。シエナは地下水路の建設など水力工学の伝統のある街だったのです。1984年の最初のヨーロッパの旅でこの小さな街になぜ行こうと思ったのか今ではわかりませんが、このレンガ造の城壁の美しさと都市内部にある円形競技場が住居に転用された建築(上の写真下)は今でも強く印象に残っています。城壁の上部は美しい街路になっていて、一週すると1時間程度だったでしょうか。この街路をルッカの市民がジョギングしていたことが思い出されます。円形競技場の転用については、黒田泰介さんの『ルッカ1838年』(編集出版組織体アセテート)に詳しく記述されていますので、そちらを御覧下さい。
 

 No.11

モロッコ ワルザザット周辺 
大地と同化した建築

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フェズ、マラケシュ、ラバトなどの都市を見学し、アトラス山脈を越えワルザザットに着いたのは、1984年の年末でした。ピレネーを越えるとアフリカだというのは嘘で、本当のアフリカはアトラス山脈を越えないとわからないのだとワルザザットに着いて思いました。中世がそのまま息づいているフェズの街にもヨーロッパの街にはない生々しさに驚きましたが、アトラスを越えるとベルベル人の集落が現れ始め、あるものは廃墟となり、朽ち果てていましたが、写真のようにその大地と同化した建築の力には驚きを隠せませんでした。まさに大地から立ち上がる建築の姿を目の当たりにした初めての経験であったように思います。ここには、すでに21世紀の建築の姿が何百年も前に先取りされているように感じました。

  No.12

プラハ カレル橋 
橋のある風景

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魅力的な都市には、多くの美しい川が流れていることが多い。その川を演出してくれるのが橋です。パリのセーヌ川にかかる様々な橋やイスタンブールのガラタ橋など印象深い数多くの橋が思い浮かびます。その中でも特に印象的なのはプラハのカレル橋です。1984年11月14日から16日までウィーンでビザを取り、プラハを旅しました。写真でもわかるように、プラハの秋はプラハ色といえるような気配をただよわせていました。プラハ最古の石橋であるカレル橋は歩行者専用の橋であり、幅が10メートルあるため、道というより広場のスケールが延長されたような橋でした。この橋を渡り、かつてカフカが住んでいた住居地区へ。ブタペストと同様に橋をはさんでつながる街の景観は、どちらに立つのかによって異なり、川によってできる空隙が都市を眺望するというスケールを与えてくれていました。

 

No.13
ベルン(スイス) 
水と森の首都

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スイスの首都ベルンに着いたのは、1984年9月30日。スイスの建築家集団Atelier5の集合住宅を見学することが目的でしたが、この小さな首都に着いた途端に、美しい川と森に囲まれた都市にすっかり魅了されてしまいました。迂回する川に囲まれるようにしてできた中世の骨格を残すベルンは、首都とは思えないローカリティを保持し、イタリアのボローニャの都市にあるポルティコという回廊状の通路が都市中に張り巡らされ、人間のスケールを逸脱することのない親しみやすい都市でした。迂回する川の外側には小径があり、ベルンの周囲に流れる川を楽しみながらの散策は印象深く、私の中では一度は住んでみたい街の一つに数え上げられます。首都とは、メトロポリスである必要などない最もよい具体例といえるでしょう。
 

 No.14

ヴィチェンツァ(イタリア) 
パッラーディオの街

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ヴィチェンツァは思い出深い街です。1984年に初めてイタリアを訪れたとき、ヴェネツィアはホテル代が高いため、近くのヴィチェンツァに宿を取り、ヴェネツィアに通ったこと、また、パッラーディオの建築を数多く観ることができる街として印象に残っています。ポルトガルに滞在していた1999年にもヴィチェンツァを15年ぶりに訪ね、パッラーディオの傑作ロトンダの内部を見学できました。パッラディオの建築を改めて観ると、その古典的な様式建築の様相とは裏腹に、モダンで軽快な建築であることを感じました。ロトンダ内のらせん階段、また、ヴェネツィアのカリタ修道院内部のらせん階段を観たとき、その軽快な印象はさらに深まりました。25年前に初めて訪れたときには、ヴェネツィアでは食事をせず、ヴィチェンツァの惣菜屋で料理を買い食費をうかせたことを思い出します。イタリアらしい小さくかわいらしい街ヴィチェンツァは、ヴェネツィアのような派手さはありませんんが、パッラーディオの建築で埋め尽くされた生きた建築博物館と言える街です。(写真上:ロトンダ、写真下:テアトロ・オリンピコ内部)
 

  No.15

インドのコルビュジェ 
サラバイ邸

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1985年4月5日から17日までアーメダバードに滞在。このアーメダバードを訪れた最大の理由は、コルビュジェのインドの仕事を見学することでした。アーメダバードにはショーダン邸、製糸業者協会会館などコルビュジェがフリーズ・ソレイユと命名した日よけのある建築を観ることができるのですが、サラバイ邸もその中の一つに数えられます。しかし、他の建築と異なるのは、サラバイ邸が外部のかたちをほとんど持たず、樹木の中に埋もれたように存在する「かたちのない建築物」であることです。巨大な敷地の中に建つサラバイ邸は驚いたことに、入り口近くにあったノートに名前などを書いただけで自由に内部を見学させてくれたことでした。住人らしき人はいるのですが、私が写真を撮ることも全く気にすることない様子で、裕福なインド人のおおらかさを感じました。ボールト天井のトンネルを積み重ねたような住居は内部とも外部であるとも言えないような空間を持ち、インドの環境に適合させた陰影の造形としての建築のように感じられました。

 

No.16
イスファハン(イラン) 
世界の半分といわれた都市

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イランのサファビー朝期の古都イスファハン(エスファハン)に着いたのは、1985年3月15日。イスタンブールから丸3日間バスを乗り続け、テヘランに着き、さらにバスを乗り継ぎやっとの思いで到着。イラン・イラク戦争のさなかであり、爆撃をかわすように旅をし続けました。イスファハンという街は、建築を志すものにとっての憧れの街。街のあちらこちらに優れたイスラム建築を見学できる生きた博物館のような街でした。イスファハンの中心、王の広場には二つのモスクとアリ・カプ宮殿がそびえています。イランにはめずらしく木造部分をもつアリ・カプ宮殿は屋外に開かれた開放的な宮殿であり、非常にモダンな建築でした。チャハル・バグ通りに面するホテルに泊まり、フロントのイラン人と話していると、突然ラジオに警報音が響きました。この音は空中戦がはじまった合図のようで、日々緊張を強いられた旅となりましたが、イラン人の親切さに助けられながら無事、パキスタンへ旅を進めていきました。